No.015 2001/01 お仏具の知識/「仏具の歴史とその変遷 第2回」

仏具の歴史とその変遷 第2回

「仏具の歴史とその変遷 第1回第3回

・浄土真宗本願寺派兵庫教区阪神西組金衆寺前住職
・元文化財保護審議会専門委員
・元奈良大学教授故 光森正士先生


1.はじめに

古来、仏を供養するものとして香・華・灯の三つがあることはよく知られる通りである。これに用いる用具、つまり仏具(供養具)に香炉・華瓶・灯台などがあることも熟知されている。これら三つの仏具を揃えて「三具足」というが、この名称や各用具の形や造り、かつ相互の位置(並べ方)などに一種の規則のようなものが叫ばれるようになるのはそんなに古い昔のこととも思えない。恐らく室町時代から桃山・江戸にかけての時代であろう。
  香・華・灯の三つの供養のほかに、もうひとつ飲食の供養がある。これらをもって四供養というが、古代のインド、あるいは中国、朝鮮など、仏教が盛んであった時代にこれらの供養、供養法、あるいはその用具(器物)などについて具体的に知ることはなかなか困難である。

2.仏飯器について

さて、このたびはこの飲食供養の話からはじめたいと思う。わが国では飲食供養はどうなっていただろう。奈良時代では仏前に供える供養具としての飲食器に「鉢」・「多羅」・「鋺(わん)」「匙」「箸」などがあり、まさにわれわれが用いるのと同じような食事用具一式が揃っていた。このことは『法隆寺資材帳』や『大安寺資材帳』などから窺い知ることができる。 また現存する実物からこれを求めてみると、法隆寺献納宝物や東大寺大仏の開眼法要の際用いられたものが正倉院宝物のなかに認められる。「銀鉢(銀壷ともいう)」「金銀匙」「金銀箸」などがそれである。これらからその実際の使用法まではわからないまでも、供養具としての実物が現存する事はすこぶる貴重であることは論をまたない。
平安時代に入っても南都を中心とする旧仏教では奈良時代のそれと変化はなかったと考えられるが、最澄や空海によって密教が伝え広められることによって仏前の供養具も大きく変化したと考えられる。仏前に大壇がもうけられ、この上にところ狭しと仏具(法具)が並べられた。四面器と呼ばれるものが金色燦然と輝く様は旧来の仏具を圧倒したであろう。そのうちの一セット、一面器として火舎・六器・華瓶・仏餉器には今日みると同じような仏飯器や皿形のもの、三足のついた盤などがある。六器も鉢の下に受け皿があり、本来的には鉢や鋺と同じようなものであろう。鎌倉・室町と時代は進んでも密教ではこの大壇具の形式は変化なく、すでに今日まで及んでいる。奈良の旧仏教も平安時代から密教の影響により、一色に塗り変えられるようになった。
鎌倉・室町時代から興った新仏教も多かれ少なかれ密教の仏具に影響をうけていないものはない。真宗で用いる四具足とて仏前の上卓に置く仏具なども、燭台を除けば、これは明らかに一面器のうちの六器のみを除いた形である。
話は変るが、今日盂蘭盆会のときなど、禅宗や浄土宗などで、仏壇の前に小さな朱塗りの膳に種々の器を置き、食物を盛って供える風習をみるが、これなどは奈良時代以前の飲食の供養法に似ていてすこぶる興味深いものがある。が、何時からどのようにしてかかる風習が起こったか知らない。

東大寺
西大寺

さて、本題である飲食器であるが、今日では「仏飯器」あるいは「仏器」と呼ばれているものが一般的に使用されている。そのほとんどが真鍮製で、なかには焼きもの(陶器)のものも見られる。その形は上に鉢があり、その下につぼまった高杯の胴のようなところがあり、最下部は末広にひろがり地付きの台となっている。胴の中程に二本の紐帯(胴紐)がある。大小種々あり、なかには鉢部に蓮弁を刻むものなどもある。
 この仏飯器の原形は実は鉢、すなわち鉄鉢などと同じ鉢から生まれている。鉢のことを鉢多羅(パタラ)といい、元来比丘六物(比丘の生活必需品)のひとつで、托鉢のとき用いたり、また食器としても用いるものである。これを波多羅、鉢咀羅、鉢和蘭、鉢孟、応器、応量器ともよぶ。その形は口が大きく開き、肩が張り、次第に内すぼまりになって、底は尖底である。この器形から明らかなごとく、これを置くと転倒し、安定を欠くものである。よって鉢支と称する輪台が必要とされた。鉢支は鉢の受台で、鉢とは別造りで用意された。この鉢と鉢支とが一具になって遺っている好例は東大寺や正倉院の宝物のなかに見られ、いずれも奈良時代の優品である。平安時代になるとこの鉢と鉢支が結合・合体し、全くひとつの容器となる。これが今日みる仏飯器の祖形というべきものである。
いま、その仏飯器がどのようにして鉢より生まれてきたか、その変遷のあとを図示してみよう。 

①奈良
②平安
③鎌倉 ④室町
⑤江戸以降
 

図示した①は奈良時代の鉢と鉢支の例である。鉢は大きく、鉢支はその上にのる鉢の尖底を支えるだけの丈の低い、小さな輪台で、中程は細くくびれ、二本の紐帯がめぐらされている。
 この鉢と鉢支とて飲食が仏前に供えられたのは単に奈良時代にとどまらず、9世紀あるいは10世紀頃までも行われたのであろう。現存する遺品からみると、この鉢と鉢支とが結合した形の飲食器は藤原時代(11~12世紀)ころのものからみられる。滋賀甲賀郡常楽寺、栃木日光輪王寺の例が古例といえる。これらの飲食器はいずれも鉢の部分が大変浅い形になっている。図示した②がそれである。しかしこれらの鉢の口縁部には内側へのつぼまり、すなわち内反りがある。ここに鉄鉢などの形の名残りが認められるのである。また鉢支の胴のつぼまったところに二条の紐帯(胴紐)が認められる。これも鉢支のそれを受け継ぐものである。まだこのときまでは鉢支に相当する部分は丈が低く、中空になっている。
 鎌倉時代(図示③)になってもこの形式は続く。しかし、次第に口縁部の内反りがなくなり、また鉢支の高さも少しずつ高くなり、その紐帯部の位置がすこしずつ上方へずれて行く傾向を認めるものである。室町時代以降(図示④)になると口縁部のつぼまり(内反り)は全く消失し、口縁部が大きく開口し、ひろげられる。同時に鉢支の丈は鎌倉時代のそれよりずっと高くなり、紐帯も上に位置するようになる。だがまだ室町時代までは鉢支の底部は十分なひろがりと大きさをもっており、安定感があるが、江戸時代になるとこの鉢支の底部は小さくなり、胴部がいよいよ細く高くなり、紐帯は全く上方に達するようになり、不安定な形になる。
 普通、仏飯器の鉢の底の部分にはかならずといっていいくらいに一段盛上りがある。これはとりもなおさず、鉢と鉢支の境目を示す名残りであるが、江戸時代頃からは境界線が甚だ不明確になってきて、ほんの飾り程度の盛上りか、あるいは線刻になってしまう。遂にはこれが消失さえするのである。こうなってしまうと、仏飯器が鉄鉢などと同じ鉢から生まれてきたものだということが想像さえできなくなる。

  いま、手許にある仏飯器の資料からこれを数的に、簡単な計測と比などを求めてみた。 

 
(平安)
(鎌倉)
(室町~江戸)
口径と全高との比
1.7~1.8
1.6~1.3
0.98~0.76
口径と底(鉢支)径との比
1.5~1.7
1.4~1.3
1.5~1.3
底(鉢支)径と全高との比
1.06~1.08
1.05~1.00
0.72~0.52

平安時代の仏飯器は口径があくまでも大きく、全高の1.7~8倍もあり、鉢支の底径と比べても1.5~6倍は優にあり、鉢支の底径が全高よりも大きい。よって実に重心の低い、安定感に満ちた形をしていることが数的にも示されている。鎌倉時代、そして室町時代と下向するにつれて、その器形が変化する様子を表からも汲みとっていただきたい。
  江戸時代から今日に至る仏飯器が、非常に腰高の 重心の高いものになってしまっていることは、諸賢も十分ご理解いただけると思うが、この器形は決して見栄えのする心地よい形ではない。流行の二字でかたずければそれまでかも知れない。流行は物の良否、美醜と関係なく発展する力さえもっている。伝統は竪の模倣であり、流行は横の模倣である。しかし、考えてみると仏飯器の器形の変化は、単に流行とか模倣というようなものではなく、根本的に何か大きな原因があるのではないかと常々思っている。
 元来、鉢に白飯を盛り仏前に供するとき、恐らく鉢を両手で捧げ持ち、恭々しく鉢支の上に供えたであろう。ところが鉢と鉢支とが結合したことによって、この仏飯器をもつところに変化をきたしたと考える。つまり鉢と鉢支とが結合して一器体となっても、当初はやはり鉢の部分を棒持したに違いない。だから鉢支がいかに丈の低い、また胴のくびれの部分に指が入らなくともよかった頃である。ところが時代の経過とともに仏飯器の鉢の部分を両手で持たず、鉢支に手が行くことになり、その胴のくびれのところに指でつまむ形になったと考えられる。これはいうなれば仏前に仏飯を捧げる作法、いやお給仕のあり方が変化したことになる。こうなると、この鉢支の胴が狭く、丈が低いと大変持ちにくい訳で、ここを少しでも持ち易くするために、この胴の幅をひろげることになったと考える。大きな仏飯器においてはこの鉢支の胴をぐっと片手で握ることにさえなったのである。そこには仏前に仏飯を供える作法にさえ大きな変化をみることができる訳である。要するに鉢支の胴長、仏飯器の腰高の姿はこういうところから生まれてきたと考えるが如何であろう。
次に仏飯器の材質の問題である。現在のものは、そのほとんどが真鍮製で、なかには鍍金(電気メッキ)したものもあるが、銅鋳製のものはほとんどない。江戸時代までのものはその多くが銅鋳製であり、ロクロで引いて本鍍金か、あるいは箔鍍金する。鍍金はやはり供飯に銅錆がつかないようにという配慮であろう。 今日では仏飯器の鉢の中に板を丸く切ってうまく底板のごとく敷き込んでいる場合もあるが、これも防錆に関係すると思われる。『十誦律』や『四分律』で鉢の材質に制限が加えられており、鉄鉢と瓦鉢(泥鉢)とが聴されており、他は禁じられていた。では他に一体どんな鉢があったかというと、白銅製、金銅製、銀製、木製、石製、乾漆製、磁製などがあり、律書には金鉢、瑠璃鉢、摩尼鉢、白鑞鉢、石鉢などの名がみえる。わが国に現存するものも金銅鉢はかなり多く、木製、塞製、漆製、磁製、銅製のものなど種類は多い。これらはいずれも仏前に供された鉢で、僧尼の使用のものではないと考えられる。こういう歴史的な流れからすると陶磁製の仏飯器もあながちに退けることができないことがわかる。
 次に鉢に仏飯を盛って供えるとき、鉢に山盛り仏飯をついだものかどうかという点である。いまの仏飯器には仏飯を大きく蓮の蕾の形のごとくに盛り上げるならわしが行われているが、古くは鉢には蓋があったのである。『四分律』43には鉢支をつくることと、塵埃を防ぐために蓋をつくることを示しており、また正倉院にある銀壷にも蓋のあったことを示す例がある。蓋があれば鉢よりも高く盛ることは困難であるから、往古は今日のように仏飯を高く盛りつけることは行われなかったと考えられる。このことも鉢と鉢支とが結合したことから起こった変化であるかもしれない。
以上われわれが朝な夕なに仏前に供える仏飯と仏飯器の変遷をたどってみたが、いまの仏飯器にも存外古くからの伝統のようなものが、まだまだ窺える気もするし、また一方では大きく様変りしたのだなあという感慨をももつものである。温故知新とはよくいったものである。

3.華瓶について

華瓶は花瓶とも書き、華生、華入ともいう。要は華を挿す瓶である。ケビョウと呼ぶが、中国の銅器の形に似たもの、すなわち、口が大きくひろがり、左右に耳をつけ、また細かく文様を刻むものがある。これをカ(クワ)ヒンと呼ぶが、字は同じである。
 普通華瓶といった場合、その形に二種ある。ひとつは「亜」字形というもので、亜の字に似た広口で、頸が細く狭ばめられ、胴が膨らみをもっており、 その下に腰の細い台をつけているものである。もうひとつは酒を入れる徳利の形に似たもので、細長い頸をもち、頸から胴へ向って次第に下膨れし、下に低い高台をつけている。

亜字形華瓶
徳利形華瓶

亜字形と徳利形とではどちらが古いかといわれると即答しかねるが、遺品の上からは亜字形の方がやや古くからあり、しかも平安時代後期の品が割合多く遺っている。徳利形華瓶は、平安時代後期のものも皆無ではないが、数が少ない。鎌倉時代からは実に多くの遺品がある。

華瓶はもとインドの迦羅舎という宝瓶といわれ、香水や宝薬を入れたものという。(『陀羅尼経』『大日経』)その口に宝華を挿すのは口を覆い、栓をする意味で花を挿したものと伝えられ、よって元来、華瓶は花を挿し、花を供養する目的のため用意されたものではないことが判る。だから華鬘や散華などの方がより花を供養するという本来的な意義を有するものである。
 奈良西大寺に遺る土砂加持に用いる華瓶様の瓶器は口に蓮華を挿しており、本来の華瓶の姿に近いものを示している。
 亜字形の華瓶の変遷を時代的にたどってみると平安時代のものは頸部のくびれが鋭く、胴(壷)部は膨らみの強いもので、その肩口で頸部との境目が一段盛上っている。ごく古いものは頸に紐帯がなく、肩口の盛上げもない。それから腰部、つまり台座の部分にいたると胴(壷)の底は水平に切られた形で台座につながる。初期のものは台座の高さが極めて低く、地付き(底部)もそんなに大きくない。平安後期から地付きがだんだん大きくなって胴の膨みと同大ぐらいになる。平安後期も末期(12世紀)になると腰部(台座)のくびれが次第に太くなり紐帯の位置も上方にあがる。そして頸から胴、そして腰へかけて丸味をおびてくる。この時代のものはよく経塚の一括遺物の中にみられるが、一鋳にすることから底に木栓を嵌め込むものがよくみかける。鎌倉時代のものはこの木栓はみられない。鎌倉時代になると胴は横へ張らず、むしろ上下に張り、丸味の強い膨みを呈する。そして胴より台の地付きの方が大きくなる。室町時代になると頸部と腰部のくびれがゆるくなって太く、しかも長く伸びる。胴はいよいよ丸くなる。そして底板をロウ付けする位置が鎌倉・室町と時代が下がるほど低くなり、今日のものは地付の台座の辺に底がある。

これは私見であるが、この亜字形華瓶は発生的には、壷に仏飯器の鉢支と同じ輪台をつけたものではないかと思っている。だから元来この壷は鉄鉢などと同じく尖底であって転倒を防ぐ意味で輪台を付したと考える。こう見ると仏飯器同様その器形の段や、紐帯の意味などの説明もつく。私は常に古いもののみを推賞する訳ではない。しかし古い時代のものはその本来の発生的な形がよく示され、器形に必然的理由がある訳ですが、時代の下降に伴って形式化の一途によって、それが本来何であり、何を意味するかということを全く忘れ去ってしまっている点に不満がつのるのである。それは合目的的になっているといえるかもしれない。例えば華瓶の底の取付けの位置の下にくる事は水の要領の増大をはかることである。輪台に底のないのは仏飯器の場合と全く同じである。しかし輪台というものの意味がわからねば底の取付けを下にもってくることに何らの疑いもないであろう。水を少しでも多く入れることは挿す花に有効であるという意識の方が先に立ち、目的にかなうことになるのであろう。

もうひとつ、何故、時代の下降と共にこうも器形に美しさが失われるのであろう。本来合理的につくられていたものが、単に製作のための簡便化、別な合理化が考えられてこうなったのだろうか、例へば華瓶の台座地付きの部分が次第、次第に大きく発達してくるのは器物の安定を計るためであろうか。しかしこうしても決して器形の安定感が増したとは少しも見えないのであるが。不思議なことである。
 亜字形の華瓶の頸部や腰部、あるいは地付きの部分に蓮弁を飾る物が出てくる。平安末期から鎌倉時代に盛行するが、これも仏飯器の場合とよく似ている。

徳利形の華瓶で平安後期と考えられるものもなくはないが、大体鎌倉時代以降のものがほとんどである。この形のものは口径が割合に小さく、頸部の長いのが特徴である。平安時代のものは頸部はそれほど長くはないが、だんだん長くなり、鶴首の花挿しみたいになる。頸部の中程に紐帯をつけるのが普通である。初期のものはやはり胴体部が下膨れで、張りがあり、高台も低い。鎌倉時代になると胴の張りが少なくなり、やや胴長になり、高台がたかくなる。この種の華瓶には肩や胴の中程に紐帯(玉縁)があるが、これが時代の下降と共に幅の広いものとなり、その上下に細い紐がつけられる。これを子持ち玉縁という。玉縁の全くないもの、いわゆる高野徳利のようなものもなくはない。また、頸部や胴の下部から台にかけて蓮弁を刻んで飾るものもある。慈覚大師請来型というような名もあるがそんなに古いものはまだ見ない。
 なお亜字形華瓶にしてもこの徳利形の華瓶にしても鍍金のあるものが割合に多い。その鍍金は本鍍金(ケシメッキ)よりも箔鍍金のものの方が多い。仏飯器にも華瓶にもいえることだが、大体遺品として認められるものは平安時代からのもので、それも後期の藤原時代からのものであり、鎌倉時代のものはかなりの数が認められる。

仏具の時代的な変遷を追及するといろいろ興味深い問題が次々と出現するが、その解明は甚だ容易ではない。しかし、かつて立派な美しい形のものが生み出されてあったにもかかわらず、今日のわたしたちはそういうものを顧慮せずに、どんどん新型、新型といって別なものを造り出しいているが、本来的な眼でこれをみると、いずれも奇形であったり、異形であったりする。この際何とかならないものだろうか。

昭和56年4月 花まつりの日 脱稿
光森 正士 (禁無断転載)


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