2015/01/26 「由来記 ~株式会社小堀 240年のあゆみ~」

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 仏壇が今のように一般家庭に浸透してきたのは江戸時代元禄期(一六八八〜一七〇四)であると言われます。それまで仏壇は村落共有のものであり、人々は月に何日か寺院に参詣するのが習わしでした。ご本尊は葬儀の際に各家へ貸し出されていたようです。幕府の政策により本百姓の家々が成立するようになる一七世紀末には、家ごとに菩提寺を定める寺請制度が設けられ、各戸固有の仏壇が設置されるようになりました。
 農家では座敷に仏壇をまつり、朝夕に礼拝し、先祖の命日には僧侶を招き供養する習わしがありました。また、この頃には、尾張・三河・彦根などで工芸的な仏壇の生産が始まりました。
 小堀を創業した釈義讃の父、彦根初代釈教誓(一七四三年没)が当時の小堀村(現長浜市小堀町)から彦根へ移り住んだことが小堀の今に伝わっております。彦根初代以前の先祖のことは、当時の小堀家の手次寺が火災で全てを消失しており、うかがい知ることができません。小堀で仏壇づくりを始めたのは、彦根二代にあたる釈義讃(一八〇〇年没)であることから、釈教誓もあるいは仏壇職人であったのかもしれません。
 幕藩時代の日本は農民の年貢を基盤とし、農家は厳しく統制されていました。宝永の大地震や富士山の噴火、西日本の大飢饉と災害続きで、農家であっても主食に米を食べることはむずかしかったようです。
 そのような時世にあって、小堀村を領する彦根藩は、関ヶ原の功績により徳川家康からの信頼が篤く、江戸の頃には石田三成の旧領地を与えられ、西国大名の目付役として三十五万石を得る大大名でした。広い領地は良質な近江米がとれる農地の割合が高く、彦根城の築城で近隣より集められた大工や左官職人たちの中にはそのまま定住する人々も多くいたようです。藩では多くの武士を抱え、彼らが装備する武具を作る職人も多く住んでいました。戦のない時代が続くと、鎧や兜を作る金工、革工、塗師など武具の職人たちや箪笥などの家具職人たちの中には、仏壇職人に転向するものも多かったようです。また彦根に支坊を出す寺も多かったことから、よく働き信心深い近江の人々の姿がうかがわれます。

 

 

 

 

 

 創業者である初代釈義讃(彦根二代/仏壇づくりにおける小堀の初代)が仏壇づくりを始めたのは安永四年(一七七五)、三〇歳頃のことです。彦根の工芸的な仏壇は仕事が丁寧でありながら京都産よりも安価だと定評がありました。近江一帯の農村では大型の仏壇が主流で、同じく需要の多い美濃や四国、京都にも販路が多く、出荷しておりました。初代釈義讃の手がけた仏壇は、その彦根においても高級品としての評価が高く、製造直売の店を堅実に営んでおりました。
 二代釈義了(一八二四年没)に続く 、三代釈義山(俗名與左衛門・一八五九年没)の位牌により初めて俗名が明らかになります。その長男釈霊道(一八八二年没)は與兵衛、次男は與次。名前にあてた與の字に屋号ヤマヨとのつながりを見ることができます。明治四年(一八七一)に戸籍法が制定、明治八年には全国民が苗字を持つことになりました。
 小堀與兵衛の妻品は岐阜の士族山田家から嫁ぎ、とみ(戸籍上はま津/一八六四〜一九三三)を産んだ三年後に二九歳で亡くなりました。とみが五歳の時でした。明治一五年(一八八二)與兵衛も五五歳で亡くなり、とみは一五歳にして小堀本家の戸主となりました(小堀ま津の原戸籍による)。その翌年、いとこである小堀岩吉(一八六五〜一九四五)と結婚。とみは二〇歳、岩吉は一九歳でした。
 四代小堀與次(一九一三年没)の次男岩吉は分家から本家へ養子に入って戸主となります。岩吉はとみとともに、兄である五代惣次郎(一九三九年没)、弟源三郎(一九六一年没)たちと協力し、彦根の地で仏壇業を営んでおりました。
 六代岩吉・妻とみ夫婦はやがて独立の思い募り、一人息子の房次郎(一八九〇〜一九五三)を連れ明治二七年(一八九四)京都に移住しました。翌年、平安遷都千百年の祝祭にわく京都でふたりは念願の仏壇店を独立開業しました。名を小堀岩吉商店、場所は高辻通柳馬場東入萬里小路町一八番戸。開店年度から記帳され現存する何冊かの大福帳(『大宝得帳』)によれば、当時としては大金の五百円を彦根の兄から借りたとあります。多少の家財や商品も借り、家賃七円のささやかな借家で始めた商店で夫婦はよく働きました。同年京では時代祭の創始、更に前年には日清戦争の終結と新たな幕開けを感じさせる時代でした。東本願寺様では蛤御門の変で類焼していた阿弥陀堂・御影堂の再建が成り遷仏遷座法要が厳修されました。親鸞の教えに生きる志願が実ったご本山前は大勢の参拝客で賑わいました。社交的で才覚のある岩吉と前向きなとみのがんばりで、開店二年目には在庫仏壇二二本となりました(『大宝得帳』)。博覧会に出品し、銅牌を受賞。御堂造りの仏壇も手がけるようになりました。明治三一年(一八九八)には東西両本願寺様で蓮如上人四百回忌が厳修され、大変な参拝客でした。
 その後、店舗は移転を繰り返しました。明治三一年に二度目(寺町通松原下る)、明治四〇年(一九〇七)に三度目(七条通烏丸一丁半西入る)。明治四四年(一九一一)東洞院上数珠屋町上る筒金町の地に四度目の移転をした三年後の大正三年(一九一四)、土地家屋とも買い入れました。「自分の店を持つまで羽織は着ない」と決意した日から二十年。一途に働き節約に励んだ岩吉はこれを機に本籍を彦根から京都に移しました。
 足固めができた小堀岩吉商店は、精力的に在庫を増やしていきました。明治四四年(一九一一)以降は毎年カタログ『仏具実価表』を発行し、全国へ通信販売を行いました。翌年の市電開通、発電所完成に伴い、京の都市基盤が次々と整い、人々も意欲的に働きました。同年、東本願寺様山門が完成、東西両本願寺様では親鸞聖人六五〇回忌法要がとり行われました。この頃の小堀では京都の職人による製造も増え、大型の仏壇仏具を数多く納めました。数年後、小堀の京仏壇として各地の博覧会で金銀銅受賞の栄を賜りました。初代より高級品としての評価が高かった小堀の仏壇が公式な場で認められ、妥協のない物づくりの礎となりました。
 大正三年(一九一四)に第一次世界大戦が勃発、物価の高騰や米騒動、恐慌など経済変動の激しい時世でしたが、岩吉夫婦はそれに屈せず、意欲的に働きました。そのことは、大正元年(一九一二)から毎夏二カ月間の北海道出張を二二年間続けたことからもうかがい知れます。甲斐あって北海道の寺院様への売上も増えていきました。大正三年、房次郎が嘉津(戸籍上は畑伊く・一八九五〜一九七二)と結婚。健康で明るく家業もよく支える嘉津との間には五人の子が生まれました。嘉津は子育てに励みながらも、店員たちの衣食の世話を務めました。
 七代小堀房次郎の頃は、日本の戦況が拡大し、商売を続けるにも困難を極めましたが、慎ましく商いを続け、全国の寺院様宗徒様のためにも必死で家業を守り抜いた時代でした。
 京都開店から約四十年。昭和九年(一九三四)に念願であったご本山前(烏丸通正面上る)に開店し、合名会社小堀仏具店を設立しました。その前年には、長年岩吉を支えてきたとみが病死しており、悲しみを乗り越えての新体制でした。代表社員に房次郎、社員に岩吉、その孫にあたる嘉一(一九一五〜一九九七)と岩三(一九一八〜一九四五)が名を連ねました。旧制商業学校で簿記を学び家業に入った嘉一は、父房次郎が真面目ながらも身体が弱かったこともあり、軍隊に入るまでのわずかな間岩吉から直接商いの基本を教え込まれました。二年後岩吉は隠居届けを出し、家督を房次郎に譲りました。自身の健康が優れず、脳梗塞の後遺症で身体が不自由になっていました。
 昭和一三年(一九三八)に長男嘉一が、翌年に次男岩三が入隊。昭和一六年(一九四一)に太平洋戦争が始まり店員も次々に徴兵・徴用されました。銅や真鍮製の仏具は軍用に供出して販売できなかったため、陶器の具足類で代えていました。岩吉が商売一筋の人生を閉じたのは、昭和二〇年(一九四五)のこと。晩年には「商売を一心にせよ励むべし この世安楽みらい安楽 ひとりきて一人でかへる弥陀の国 あとをつゞけよ 家族もろとも」の言葉を遺しており、臥してなお、持ち前のたくましい気性が衰えることはありませんでした。身体は衰弱しつつも阿弥陀如来の本願を信じお念仏を支えに往生しました。敗戦二カ月前孫の岩三がフィリピンで戦死したと知らずに逝ったことはせめてもの救いでした。
 その二週間後、嘉一の長男賢一が誕生。同年八月一五日、嘉一の妻ひさ(一九二三〜)は生後四ヶ月の賢一とともに疎開先のラジオで終戦を知りました。店に帰ると、父房次郎は病床で、店内は人手もなく廃業寸前でした。昭和二三年(一九四八)九月、三年間におよぶ過酷なシベリア抑留の後、嘉一が帰還しました。
 八代小堀嘉一の時代には、家業から企業へ、小堀は質的にも大きな転換を遂げました。戦後の激動を体験した嘉一は後に「明治維新後の百年は、それまでの千年の変化に匹敵し、今後二十一世紀までの十五年間は更に変化の質とスピードが速まる」(京都府立中小企業総合指導所『指導所情報』)と記し、経営における緩慢さを常に戒めていました。「会社の立場は後にしてまずお客様の立場にたっての発想と行動」が嘉一の口ぐせでした。
 戦争のため一年遅れになっていた蓮如上人四五〇回御遠忌を翌年に控えて在庫や資金の工面に奔走し、なんとか在家用の仏飯器、具足、輪灯などを陳列するに至ったのは、ひとえにお客様のご利益第一の思いゆえでした。御遠忌の参拝者は大変多く、仏具を求める大勢の宗徒様の対応に追われました。また、嘉一はようやく復興の緒についた東京へも出張を重ね、毎年浅草本願寺様のお世話になりながら、十年以上各寺を訪ね回りました。
 昭和二八年(一九五三)房次郎が逝去。六三歳でした。昭和三十年代には東西両本願寺様や全国各地の別院様へ主要な仏具の納入が相次ぎました。昭和三六年(一九六一)株式会社小堀を設立(社長小堀嘉一、資本金一千万円)。後、東京・福岡に念願の支店も開設しました。資金の乏しい中で嘉一を突き動かしたのは極寒シベリアでの生死をさまよった体験です。「六〇%成功の可能性があれば断行、その後は実行の過程で努力。もし失敗してもシベリア抑留より悲惨なことはあり得ない」との思いで、伝統産業を担う小堀として道を拓きました。
 嘉一はさらに未来に向けて盤石たる経営を目指し、商店経営の勉強会などで熱心に学びました。生活様式の変化に対応した独自の商品開発も行い、京都・滋賀に直営工場を設立、研究開発部門を設けました。日本万国博覧会が開催された昭和四七年(一九七二)、嘉一の次男・進より婚約結納の報告を受けた翌月、嘉津が逝去。
 九代小堀賢一(現会長)、十代小堀進(現社長)、並びに小堀正(現専務)はともに、父嘉一の果敢な精神を受け継ぎ、研究開発と販路拡張に精進。近年の小堀は、創業からの伝統を守り、未来へつなぐものづくりの精神で、中小企業庁長官賞、グッドデザイン賞など受賞の栄を賜りました。国内では札幌店(昭和六〇年)、練馬店(平成二年)を開設。海外へも出展を行うなど、小堀のフィールドは世界へ広がっています。
 経済産業省「中小企業IT経営力大賞」認定(平成二〇年)は、根本にあるお客様との絆を一層深める機縁となりました。また、寺院様の使用済ろうそくを発展途上国の子どもたちに贈る活動と京仏具工房の見学はいずれも、仏教の教えでもある心の豊かさを社会に広める活動の一環です。世代を超えたいのちのつながりのなかで使命あることに感謝しつつ、企業としての社会貢献を一層心がけてまいります。

株式会社小堀 十代小堀進 記


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